宮本ヒストリア
※都立中央図書館特別文庫室所蔵「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」。画像の無断複製や二次使用を禁ずる。
トテチテターから電気ホーンまで
宮本ラッパ150年の歴史
~警報器作りに生き抜いた宮本の記録~
明治5年 『銅壺屋』転じて『ラッパ屋』となる
文久3年(1863年)小石川の関口町に旧幕府の兵器製作所があり、明治5年に明治政府が陸軍を創設、フランスやドイツから招いた指揮官の下、近代的西洋式陸軍へと変わっていく中で、外国式の信号用ラッパを造り始めた。
その際、たまたま銅壺屋(銅製のかまど)であった初代宮本勝之助がラッパ製作の主任から採用されたことが、ラッパ屋を始めるきっかけとなる。
<このころの製品>
馬車ラッパ/熊追いラッパ
明治15年、市内の鉄道馬車に使用された。
北海道では郵便夫が熊追用として使用した。
明治36年、市街電車の開通により地方へ移り、豆腐屋の売り声代わりに使用された。
『宮本喇叭製作所』の名称で製造。
人力車用ラッパ
主として、人力車に使用した。
明治後期から大正時代 自動車のラッパ屋に
明治38年頃、オートバイのラッパ修理を依頼されたことをきっかけに交通関係のラッパに転向。
この頃と前後して日本に自動車が輸入されるようになり、ラッパの修理・制作の依頼を受けるようになる。
フリクションプレスの設置から、手作りより能率が上がり、海外への輸出も行った。
<明治40年前後から昭和11年頃の製品>
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四輪車用ルーカスホーン
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二輪車用ルーカスホーン
『2つ巻』といって、太いラッパを二重に巻き、その中にリード(笛)をつけて、ゴムスポイト(握りゴム)から空気を送って鳴らした。英国の部品メーカー『ルーカス』社の製品であるため『ルーカス』と称された。
昭和初期から終戦まで 空気ホーンから電気ホーン製作へ
昭和6年頃、日本最初の電気ホーンの製造を開始するが、戦争の拡大進行につれて、順次物資も欠乏。
当時、電気ホーンは年生産6千~7千個ほどであった。
従業員も統制され、召集や移転で20名を割るようになった。
昭和15年頃、物資が統制されてから空気ホーンのメーカーは昭和20年の敗戦の日まで
我が社一社の独占であったが、終戦と共に製作を停止。
昭和20年3月、東京大空襲により江戸川区の工場が全焼となった。
<このころの製品>
電気ホーン
軍用車・普通車に採用され、TONHONの名で売り出した。
終戦からの再出発
昭和29年『宮本警報器株式会社』の商号を以って再出発。
コストダウンと改良を重ね、数々の製品を製造。現在に至る。
長筒形低音ラッパ
昭和27年以降乗用車、トラック等に使用されていた。
リヤカバーと筒の部分の塗色を変化させツートーンとし、東南アジア方面の輸出向けとして好評であった。
平型ホーン
渦巻型ホーン
四代目 宮本庫治の言葉
戦前~戦中~戦後と激動の時代に会社を支え続けた四代目宮本庫治は次の言葉を残している。
「私腹一点張りで、私利私益のみを計る人間では、会社、法人を経営する資格なきものであろう。
世の中は公益人になることによって、個人の幸福と社会の幸福、平和が成り立つようにできており、それに向かって歩んでいるように思われる。」
自動車年鑑の創刊90周年を祝し、創刊当時1931年の弊社広告が、日刊自動車新聞(2021年11月5日発刊)に掲載されました。
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